ヨーロッパの胎内にあるチェコ文学

ペトル・A・ビーレク
カレル大学現代チェコ文学教授、南ボヘミア大学文化研究教授。文学と文化に関する著書6冊を上梓。チェコ現代詩、文学理論、また最近では主にチェコ現代散文小説について執筆する。

19世紀末、近代の発展段階が完了し、(民族の教育あるいは社会における政治闘争の装置という役割を終えたため)文学が「自律的」なものとなったが、チェコ文学はヨーロッパの文脈において両義的な特徴を有していた。この関係を形作ったのは、18世紀から19世紀にかけて展開した民族復興運動であり、それは、チェコ人の過去と「精神」の肯定的なイメージとともに、理念面での整合性を有する民族文学によって公共空間を満たすというプログラムによって特徴付けられていた。その運動は、「啓蒙」され、誰もが対等な集団としての民族というヴィジョンを提示するもので、文学には、何かを伝達したり、何かと混ざり合ったり、動的に変化することよりも、反復すること、同一であること、他の共同体から異なっていることが積極的かつ生産的に求められていた。それゆえ、19世紀のチェコ文学は、「高次」の文学という観点から見ると、自律的な遊戯空間として存在し、そこでの他者(他民族、他地域の文化)は、同等のチェコ的な存在が参照される、偉人(ゲーテ、スコット、バイロン、シラー、ハイネ、ディケンズ、トルストイ)が単に羅列されるものとして位置付けられていた。だが同時に、同時代の文学ヒットメーカーの翻訳を媒介として、「堕落」した、あるいはポップカルチャー的な世界も、19世紀を通じて発展を見せていた(1850年代以降のアレクサンドル・デュマ。1870年以降のジュール・ヴェルヌ。1880年代以降のジェイムズ・フェニモア・クーパーやビョルンスティエルネ・ビョルンソン、世紀転換期以降のカール・マイ、アーサー・コナン・ドイル、1910年代初頭にはジャック・ロンドン、アーネスト・トンプソン・シートン)。

1880年から二十年以上に渡って、アメリカ先住民の物語同様、チェコ文学はスカンジナビア世界に魅了されるが、個人と社会の関係という自分たちの問題と並行的な関係をそこに見出したからである。1891年、プラハのペトシーンにエッフェル塔のミニチュアが建設されたように、文学においても同時代の世界やヨーロッパが翻訳を介して広がり、さらにはエキゾティシズムに触発され、非ヨーロッパの文化(日本趣味への絶え間ない関心)にも通じることになる。そのため1890年代には、集団的なプログラムから距離を置くこと、主題面において民族から個人へ移行すること、つまり、相互的な支援、監視、排除から、私的な主題や個人のアイデンティティの問題へ移行することが可能となった。

20世紀初頭の十年間は、同時代のヨーロッパ文化というある意味で自然な環境のなかで、「今、ここ」という存在様式がチェコ文学にもたらされることになった。チェコ作家の幾人か(例えば、チャペック兄弟の初期作品、ヤロスラフ・ハシェク、ヤクプ・デムル、ラジスラフ・クリーマ)は、到来しつつあるモダニズムの精神のもと、個人のアイデンティティの危機を題材にし、フランツ・カフカ、アルフレード・クビーン、ローベルト・ムージル、ヘルマン・ブロッホ、ブルーノ・シュルツ、ヴィトルド・ゴンブローヴィッチと共に、中欧独自のモダニズムと言ってもよい概念を作り出した。前衛文学(1920年代におけるデヴィエトスィルの作家たち、1930年代のシュルレアリスム、ならびにある意味での社会主義リアリズム)は明白な傾向を形作り、彼らと共に、チェコの文脈は、ヨーロッパおよび遠方の空間での「エキゾティシズム」「祝祭」「革命」「周縁」の刺激を自分のものとしたのである。ヨーロッパ文学の主要な潮流と並行する形で、1920年代、30年代のチェコ文学は、脅威と危機の感覚と並び、実存主義的な虚無、時間感覚の喪失、死の現象といった主題を展開し、とりわけ1930年代後半、その傾向は強まっていく。チェコ文学のこのような特徴は、1930年代におけるカレル・チャペックの小説および戯曲、イヴァン・オルブラフト、ヤン・チェプ、エゴン・ホストフスキー、ヤロスラフ・ハヴリーチェク、ヴァーツラフ・ジェザーチの散文といった主要な潮流だけではなく、ヴラジスラフ・ヴァンチュラやミラダ・ソウチコヴァーの散文に加え、マリエ・マイェロヴァーの『ダム』などの実験的散文にも見受けられる。

1939年、民主的なチェコスロヴァキアが崩壊し、全体主義権力が出現すると、チェコ文学はふたたびその文脈に関係づけられ、存在を問うモードに移行し、チェコの歴史や文化のイコン的人物が中心のテーマとなり、チェコ性の「精神」が、一般人、民族語の美しさに求められるようになる。戦後、共産主義の全体主義が出現すると、ソ連型の文化モデルが輸入され、孤立した状況はなくなったものの、集団主義的な建設、公共の利益が優先され、私的、個人的な領域が抹消され、チェコ文学はふたたび人工的な野外博物館となることが余儀なくされ、教育的な要素やイデオロギー的プロパガンダが優先された。1950年代にはスターリン主義の雰囲気が蔓延するが、その雰囲気が、1960年代以降、まずは国内において、次いで国外で活躍を見せるミラン・クンデラ、ボフミル・フラバル、ヨゼフ・シュクヴォレツキー、アルノシュト・ルスティク、イヴァン・クリーマ、ヴァーツラフ・ハヴェル、ヴィエラ・リンハルトヴァー、ルドヴィーク・ヴァツリークといった個性的な作家たちを生み出す土壌を作ったように見えるのは単なる表面上の逆説に過ぎない。1960年代のチェコスロヴァキア国内では、彼らは斬新な社会テーマや文学アプローチを試みる作家と見なされ、その後、国外で彼らが受容された際は、1968年のトラウマ的なイメージと結び付けられ、全体主義体制の犠牲というプロパガンダに有効な存在として受け止められていた。そのため、国外で彼らの作品は――クンデラの事例が示すように、作者の意図とは別の形で――ソ連型共産主義の衛星国という異国趣味的な空間という理想社会の希望と崩壊として見なされることがあった。

1989年に共産主義が崩壊する。だが、それによってチェコ文学が直ちにヨーロッパ文学の一地方に編入されたわけではなかった。社会発展が「特殊」であり、制度化されるほど高められた文学には「借金を支払い」、「空白を満たす」ことが求められたが、同時に「普通」の社会において、文学は他と同じ市場の商品になるという頭の痛い事実に直面する。チェコ文学は、このようなパラダイムの変化に対して、中心からの撤退、新しい書き方の可能性の探究(ベストセラー、政治のパンフレット化、「正統な」自伝的作品)で応えた。1990年代後半の新しい世代は、国外でのイベントや滞在、メディアの可能性と結びついた外部での(輸出用の)位相を反映している。ヤーヒム・トポル、ミハル・アイヴァス、エミル・ハクル、ペトラ・フーロヴァーといった作家は国際的な位置を確実にし、そこには、ポーランド、ハンガリー、スロヴァキア、スロヴェニア、ウクライナなどの作家たちと共に、変化しつつある東という相補的なイメージをもたらし、それは西側の読者にとって、他者性、エキゾティシズム、さらに少数の作品を通して特徴的なものとなっている。例えば、トポルの散文は、アンジェイ・スタシュクやオルガ・トカルチュクの散文のテーマや詩学を見事に補完している。「もう一つ」の、まだ整備されず、模索を続ける東ヨーロッパの文化という象徴的なイメージ(この観点から見ると、中欧文学という概念は背景に退き、ロシア文学も独自の居場所を確保している)が浮かびあがるが、それは理解されやすい一方で、西欧の文学では周縁にとどまるか、あるいは忘れ去られたテーマを提供するものとなっている。「繊細な野蛮人」[訳注 ボフミル・フラバルの小説のタイトル]という位置付けは、文学の力と可能性を今なお信じている人々たちにとって、極めて明確で有効な可能性を秘めている。

日本語訳:阿部賢一