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記事ライブラリーでは、ヨーロッパの文学シーンに関するさまざまな側面を紹介する記事が閲覧できます。

数年前、アメリカとオーストラリアの研究者による調査で、エストニア人の蔵書数は世界平均のほぼ2倍に上ることが分かった。これは驚くに値しない。私たちにとって文学は、ほぼ半世紀にわたって祖国の代わりだった。祖国そのものがソ連の占領下にあり、私たちの言語と文化は常に脅威にさらされていたからだ。だから、エストニア人作家による新作は、2万5,000部から3万部出版されるや、あっという間に売り切れていた。エストニア語話者はおよそ100万人しかいないにもかかわらずである。読書は、一つの抵抗の形であったのだ。
スロヴェニアの独立は1991年のことである。今年スロヴェニアは、欧州連合(EU)加盟20周年を迎える。さまざま国の一部であった歴史が長いスロヴェニアは、その間、言語、文学、文化を自力で守り続けてきた。スロヴェニアでは、翻訳文学作品が盛んに読まれているが、これは、ヨーロッパや世界の他の国々の文学に触れる機会を作家に与えるものだった。昔も今も作家の多くは、現役の翻訳家でもある。そのためスロヴェニアには、いつの時代も世界文学に見られるほとんどの潮流、スタイル、形式、ジャンルがそのまま入ってきていた。
「ベルギー語」は独立した言語ではない。従来のフランス語に代わる言語でもない。「ベルギー語」は、単語とイメージで読まれ、雨だろうが眩しいばかりの晴天だろうが、 (自らを)笑い、罵ったりブツブツ言ったりすることができる言語だ。どこかズレたフランス人として自ら進んで 嘲笑されながらも、ベルギー語は作家に信じられないほどの表現の幅を提供する。作家たちは 「パリのサロン」から解放され、疑いなく、より不安定ながらも、はるかに実りの多い道を切り開くことができるのだ。
スウェーデン・ミステリーには社会の全階層を描く全体小説への志向が強く感じられる。これは一九六〇年代に登場し、現代に至るスウェーデン・ミステリーの基盤を作った、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーの影響が大きい。
2010年9月。ドバイ経由の飛行機で、無辺際に広がる瑠璃色の海に浮かぶ、灼熱の蜂蜜色に満ちたこの島に初めて足を踏み入れた。タラップで感じる、独特の湿気がこもったような生ぬるい空気。今でもあの空気を私の身体は覚えている。ただそれもすっかり馴染みのあるものとなってしまった。
本稿ではリトアニアの現代文学シーンを紹介すると共に、リトアニア現代詩の最も重要な視点と傾向を示していく。まず指摘しておきたいのは、強烈な影響力を伴う変化が始まったのは1990年のリトアニア独立以降だということだ。独立によって、認識面に重大な変化が生じた。世界に向かう動きが生まれたのだ。
“ラトビア人は内向き”——ラトビア文学を国外に発信するプラットフォームLatvian Literatureは、そんなロゴを掲げつつラトビア文学翻訳者会合を主催し、毎年の新人作家や話題作の紹介、出版社との交流の場を与え、私もそこに交じって学んでいる。
マルタは公式には、マルタ語と英語の2カ国語を公用語とするバイリンガルの国である。しかし、マルタ語が国語であるという事実には変わりがなく、これは文学創作にはっきりと現れている。マルタ国立書籍評議会(NBC)のデータベースには、700を超えるマルタ人現代作家が登録されているが、多数派はマルタ語で書く作家である。
オランダは長きにわたる貿易の歴史を持つ国であるし、オランダ語はヨーロッパの言語のなかでは「小さい」ものに属するので、オランダの読者は翻訳を通して、あるいは外国語で文学を読むことに慣れ親しんでいる。
小説家オルガ・トカルチュク(1962-)が2018年のノーベル文学賞を受賞したことは記憶に新しい。1996年には詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923-2012)が同賞を受賞した。世代もジャンルも異なるが、平明な言葉で書かれた両者の作品は、ポーランドでは幅広い読者に親しまれ、よく読まれている。