スウェーデンミステリーの現在

杉江松恋 すぎえ・まつこい
1968年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。書評家・ライター。著書に『路地裏の迷宮踏査』、『読みだしたら止まらない! 海外ミステリー・マストリード100』『浪曲は蘇る』、『ある日うっかりPTA』などがある。

スウェーデン・ミステリーには社会の全階層を描く全体小説への志向が強く感じられる。これは一九六〇年代に登場し、現代に至るスウェーデン・ミステリーの基盤を作った、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーの影響が大きい。

第二次世界大戦後のスウェーデンでは社会改良運動が高まり、自然主義的リアリズム文学への関心が強くなっていた。その中で人間の諸相を最も効果的に描くことができる犯罪小説が注目されるのは当然の流れだろう。ミステリーの範疇に含まれる作品は大戦前から多数書かれていたが、シューヴァル&ヴァールーの作品はそれらとは一線を画している。二人は1963年から小説の共同執筆を開始し、1965年にストックホルムの刑事マルティン・ベックを主人公とする警察小説シリーズの第一作『ロセアンナ』を発表した。

最終的に全十作が発表されたこの連作では、1965年から1975年までのスウェーデンが描かれる。社会改良運動は1968年を頂点として退潮していく。そのことに警戒心を持ったシューヴァル&ヴァールーは、マルティン・ベックの視点を用いて、スウェーデンの変化を余すところなく書こうとしたのである。ベックは社会のちょうど中間層に位置する人物で、警察官という職掌ゆえに上流階級にも下層の犯罪者にも接することができる。作中では社会倫理に抵触する問題、特に性に関することも積極的に主題として取り入れられ、人間の裏表が赤裸々に綴られた。こうした、社会観察の視点、普遍的視点を持った主人公の採用、禁忌なく人間性を描くことが以降のスウェーデン・ミステリーの基本形となった。同シリーズは多くの言語に翻訳され、諸文化圏にも大きな影響を与えている。

シューヴァル&ヴァールーによって確立されたスウェーデン・ミステリーを1990年代にアップデートしたのがヘニング・マンケルである。マンケルはアフリカでの支援活動を行うなどコスモポリタンの視点を持った作家で、スウェーデンもまた国際情勢の中では孤立して存在することはありえないということを作品で示した。1991年の『殺人者の顔』に始まるクルト・ヴァランダー警部シリーズは、移民に対する排斥運動などスウェーデンが直面する現在の状況を鮮やかに描き出したのである。同シリーズで特筆すべきはクルト・ヴァランダーの個人的な生活を作品内で扱われる事件と同等の比重で扱った点で、主人公の個性は欠くべからざる作品の魅力であるということが改めて認識されるようになった。

これ以降で重要な作品はスティーグ・ラーソン〈ミレニアム〉三部作である。2005年に刊行が始まった同作は、ジャーナリストのミカエル・ブルムクヴィストと、犯罪の犠牲者となったために不幸な生い立ちをし、今は孤高の戦士として社会悪と闘うリスベット・サランデルを主人公とするシリーズである。この連絡でラーソンは、女性が社会の中でいかに虐げられた存在であるかを繰り返し描いた。そうした主題とリスベットは不可分の存在である。2010年代に世界で繰り広げられた「#me too」運動を先取りした作品ということもできるだろう。マルティン・ベック・シリーズ以来の社会観察の視点を活かしつつ、警察小説の形式にこだわらず、さまざまな冒険小説・スリラーのプロットを応用してシリーズを書くことにより、ラーソンはスウェーデン・ミステリーを自由に解放したのである。

ここから多様化が始まって現代のスウェーデン・ミステリーはある。特筆すべきはニクラス・ナット・オ・ダークの『1793』に始まる三部作だ。18世紀末ストックホルムを舞台にした歴史スリラーであるという点が斬新であり、かつ、しっかりとした社会批判の軸も持っているという点でスウェーデン・ミステリーの伝統も踏まえた作品であった。このような新しい書き手の出現により、スウェーデン・ミステリーは新たな局面を迎えつつある。