ブルガリア文芸シーン入門

アメリア・リチェワ
詩人、文芸評論家。ソフィア大学「聖クリメント・オフリドスキ」文学理論教授。理論書、詩集の著書多数。文学ジャーナル編集長。ブルガリアPENセンター長。彼女の詩は英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポーランド語、スロバキア語、クロアチア語、ハンガリー語、ギリシャ語、アラビア語に翻訳されている。

かつて旧東側共産主義諸国の一員であったブルガリアは、現在は東欧諸国のひとつと位置付けられている。旅行先としてはどちらかといえば人気のない国だ。ブルガリアと言えば昔共産主義だった国で、現在ではEU加盟国ではあるが生活水準が低い国、というイメージを抱いている人も世界に多い。 こうしたステレオタイプのイメージの打破には時間がかかると思われるが、一方でブルガリアは、スポーツやオペラの実績で、人々の心をとらえ、魅了している。サッカー選手フリスト・ストイチコフの名は長年ブルガリアを代表するものであったし、近年ではテニス選手グリゴール・ディミトロフ、オペラ歌手ソーニャ・ヨンチェヴァ、女優マリア・バカローヴァといった名が続いている。そして最近、ブルガリア文学も、世界の文壇にデビューを果たした。ゲオルギ・ゴスポジノフが2023年国際ブッカー賞を受賞したのである。国際舞台で数多くの賞を受賞しているゴスポジノフの作品は、欧州ではほぼ全ての言語に翻訳されている。小説『The Physics of Sorrow 』『Natural Novel』をはじめとして詩集、エッセイ、文芸批評を執筆し、その文学的価値が非常に高く評価されているゴスポジノフの最新作『Time Shelter』は、時の流れと、その中でなんとか過去と折り合いをつけようとする(あるいはつけようとしない)人間のありかたを個人的な視点から描き出す。これは同時に、「ディストピア」としてのヨーロッパの姿でもある。ノスタルジー、未来を過去で置き換えたいという衝動、過去を変え、書き換えようとする試みに襲われているヨーロッパ。ゴスポジノフの作品は、オルガ・トカルチュク、レイラ・スリマニ、ミレンコ・ヤルゴビッチ、ジャン=リュック・ナンシーといった著名な外国人作家、文芸批評家から極めて高い評価を受けている。

ヨーロッパの過去、特にブルガリア自身の過去という題材は、高く評価されているゴスポジノフ作品に限らず、ブルガリア現代文学作品に広く見られるものである。著名作家の多くが、全体主義体制を再考し、共産主義がどのような機能を果たしていたのかを明らかにしようとしている。また、そもそも共産主義体制が生まれていなかったならば、ブルガリアはどのような運命をたどっていたかを考えようともしている。こうしたトレンドをリードする存在がテオドラ・ディモワ、アレック・ポポフなどだ。もちろん、重要な歴史的出来事を取り上げながらブルガリアの過去を再考しようとする作家もいる。事実に基づいたストーリーに、実在した歴史上の人物を登場させることもあるが、ただしドキュメンタリーではない小説作品だ。このような手法を取り入れている著名作家には、ミレン・ルスコフ、フリスト・カラストヤノフがいる。

現代ブルガリアの文学界におけるもう1つの鍵となるテーマが、現代についての物語である。ブルガリアでの共産主義体制崩壊後の数年は「過渡期」として知られている。すなわち、資本の一極集中のなかで、いわゆる「ムトリ」と呼ばれる、そのほとんどが成金のならずもの集団が登場した時期である。こうした変化を題材とした物語を中心に、社会におけるメディアの役割を探り、特に金と権力と腐敗というテーマに焦点を当てるという特徴は、ザハリ・カラバシレフ、ウラジミル・ザレフ、ズドラフカ・エフィチモワ、クリスティン・ディミトロワ、ゲオルギ・テネフらの作品に見られる。

ここ数十年で、短編作品も多く誕生している。アーバン・フィクションという伝統の一例である短編小説は、都市という特徴的な舞台に命を吹き込み、「記憶の場」(ピエール・ノラ )の物語を語る。エコロジーというテーマにも触れながら、ディストピアの要素も取り入れるこのジャンルの名手にはデヤン・エネフ、エレナ・アレクシエワ、また前述のゲオルギ・ゴスポジノフ、 ズドラフカ・エフィチモワ、クリスティン・ディミトロワらがいる。

現代ブルガリア文学の「ニッチ」のひとつが、「女性」が書く物語である。女性に対する暴力、母親と娘の関係、女性の身体といったテーマ、また意識の流れを思わせる表現スタイルなどを特徴とするこの分野を代表する作家には、エミリヤ・ドヴォリャノワ、マリア・スタンコワ、テオドラ・ディモワなどがいる。もうひとつのニッチの例としては、聖書中の物語を新解釈する文学作品が挙げられる。これはブルガリア文学をキリスト教の伝統に接近させようとする試みである。

この数十年の間、変わらず盛んな創作活動が行われているのは詩の分野である。1990年初頭に最も盛んに創作されていた文学作品は詩だった。ハイ・モダニズムの特徴であるいわゆる「learned writing」に関連したテーマを取り上げた詩で最も広く知られている著名な詩人には、ゲオルギ・ルプチェフ、ウラジミル・レフチェフ、イルコ・ディミトロフなどがいる。同時に、ポストモダンの詩人による実験的取り組みも盛んに行われた。伝統との戯れや古典作品の改作、実験的なフォルム・言語・句点の駆使などで知られた詩人にアニ・イルコフ、ゲオルギ・ゴスポジノフ、プラメン・ドイノフ、ヨルダン・エフチモフ、ボイコ・ペンチェフらがいる。女性詩人による創作活動も特に盛んだ。異なる声をあげ、異なるテーマを取り上げる女性の権利を主張するそうした作品は、男性との複雑な関係、自己観察、母性と自由といったテーマも取り上げている。著名な詩人にはミグレナ・ニコルチナ、シルヴィア・コレワ、ヴィルジニア・ザハリエワ、クリスティン・ディミトロワ、アメリア・リチェワ、ナデズダ・ラドゥロワがいる。また、これと時期を同じくして、真実と自由を代弁する存在としての知識人という理念を支える政治詩の分野が確立されてきた。新世紀に入ると、政治的な文脈を政治詩として取り上げる試みも行われるようになり、共産主義独裁の特徴であった誹謗、裏切りといったテーマを取り上げる作品も生まれた。この分野での代表的な詩人にはブラガ・ディミトロワ、エドヴィン・スガレフ、アニ・イルコフ、プラメン・ドイノフがいる。俳句の影響を受けた短詩も人気だ。この分野の先駆けとなったのはイヴァン・メトディエフである。また、時事的なテーマをイロニーを込めて短詩に仕上げる名手にはペータル・チョウホフがいる。

現代のブルガリア文学は、ブルガリア語だけで書かれているわけではない。世界には、他の言語で創作し、他国文学界の一員として成功をおさめているブルガリア人作家も多くいる。そのほとんどはブルガリア出身の外国籍作家であり、イリヤ・トロヤノフ、ディミトレ・ディネフ、カプカ・カッサボワ、ミロスラフ・ペンコフ、ルズハ・ラザロワ、エリツァ・ゲオルギエワなどが代表的存在だ。多くがブルガリアについて、子供時代の思い出や過去の全体主義体制について取り上げている。また、ミロスラフ・ペンコフなどは、神話を思わせる特性とバルカン的な奇矯さを持ち合わせたエキゾチックな存在としてのブルガリア人を描き出している。

外国におけるブルガリア文学の認知度向上に貢献しているのは、文化省主導による翻訳プログラムである。この翻訳プログラムは、ブルガリア人作家の作品の外国での出版を支援するものだ。また、国際ブックフェアやソフィア国際文学祭も、ブルガリアの作家と世界各国の著名作家が一堂に会する場を提供し、ブルガリア文学の認知度向上に貢献している。

日本語訳:中村有紀子