エストニア 世界で一番熱心な「本の虫」の国

レイン・ラウドさんの本棚

レイン・ラウド

1961年、エストニア・タリン生まれ。多数の受賞歴をもつ小説家、文化評論、日本古典文学研究者。これまでに小説11冊、詩集5冊、短編集4冊の著書がある。その他に日本の文学作品を数多くエストニア語に翻訳。研究分野の本も多数発表。

数年前、アメリカとオーストラリアの研究者による調査で、エストニア人の蔵書数は世界平均のほぼ2倍に上ることが分かった。これは驚くに値しない。私たちにとって文学は、ほぼ半世紀にわたって祖国の代わりだった。祖国そのものがソ連の占領下にあり、私たちの言語と文化は常に脅威にさらされていたからだ。だから、エストニア人作家による新作は、2万5,000部から3万部出版されるや、あっという間に売り切れていた。エストニア語話者はおよそ100万人しかいないにもかかわらずである。読書は、一つの抵抗の形であったのだ。1985年に設計されたエストニア国立図書館の建物も、学習と文学に人々をいざなう場というよりは、私たちの文化を守るための最後の砦であるかのような外観をしている。

時代は変わり、私たちの読書習慣も変わった。しかし私たちの読書好きは変わらない。もっとも、現代では、新作小説は販売数が1,000部を越えればベストセラーと位置付けられるようになっているし、本の価格もどんどん上がっている。新規出版される書籍数も飛躍的に増えているため、買いたい本を全て買えるわけではないという読者も多い。また、、作家の数も増えているが、創作活動だけで生活できている作家はごくわずかだ。これら全ての理由により、現代エストニア文学は実に多様な表情を見せていて、最新のトレンドを定義することは不可能である。

それでも、現代のエストニア散文作品に見られる2つの傾向の間に境界線を引くとするなら、それは「作品中で何かが起きるか否か」である。つまり常に何かがたくさん起こる作品と、特にこれといったことも起きない作品だ。ただしこの基準は、作品の文学的なクオリティや人気とは全く関わりがない。どちらにおいても、読者と批評家は人気作家の新作を待ちわびている。そしてどちらの作家も、繰り返し取り上げられるテーマに取り組んでいる。たとえば歴史の記憶、人間関係、社会の変化、さらにはかつて地球を支配していた謎の怪物・・いや、最後のは違うかもしれない。だが、この「謎の怪物」は、アンドルス・キヴィラクの作品では重要な役割を果たしているのだ。キヴィラクは、エスノ・ファンタジーとでも呼ぶべきジャンルで名の知られた作家であるが、それ以外でも、歴史上の人物の生涯を描いた傑作も生み出している。前世紀初頭のロマン派の画家、あるいはエストニア演劇の伝統が誕生した時代に生きた女優の物語などだ。物語の中で「何かが起こる」作品を書く作家として知られるもう1人の作家は、メヒス・ヘインサールである。ヘインサールは魔術的リアリズムのスタイルが顕著な短編作品で知られているが、姿を消した食人族を描いた初の長編小説も大きな注目を浴びた。

生き生きとした想像力を持った別の作家は、歴史上の人物が登場する空想的な世界を描くメーリス・フリーデンタルである。恐らくエストニアのミステリー界で一番有名な作家であるインデレク・ハルクラは、薬剤師メルキオルを探偵として中世タリンの町中に送り出し、あらゆる種類の悪者を追跡する。タリンの町は、ヤン・カウスの作品でも重要な役割を果たしている。カウスの描く叙情的な物語は、散文詩から小説に至るまで現代を舞台に展開される。ウルマス・ヴァティも、現代と近現代をグロテスクなレンズを通して描き出して見せる。一方、カイ・アーレレイドの作品は、歴史的・社会的変遷を女性特有の視点から描写するものだ。この点ではマーリア・カングロも同様で、カングロの辛辣で力強く心を揺さぶる作品は、そのほとんどが激動の、悲劇的でもある自身の過去の経験をもとにしている。私自身の作品も「何かが起こる」作品群の方に属している。架空の宗教的集団自殺を取り上げた小説のほか、歴史上の人物を取り上げた作品もある。例えば、力持ちのエストニア人女性が、革命後のロシアを離れ、日本に渡って力士になるという話だ。

もちろん「何も起きない」側に紹介すべき作品が少ないわけではない。このスタイルで恐らく最も著名な作家はトヌ・オンネパルである。現代エストニア文学界を代表する作家の一人であり、1993年にエストニア初のゲイ小説でデビューを果たしたオンネパルは、デビュー作の成功に続き、日記を思わせる思索的な作品で多くの熱心な読者に支持されている。読者と批評家から共に支持されている作家としてはこのほかにモドルムがいる。モドルムは、近過去の空気とその時代を生きた人々の気分を、鋭いまなざしと迫力のある散文様式で呼び覚ます力を持った作家だ。このスタイルで3番目に著名な作家はペーテル・サウテルだ。サウテルの妥協のない正直な文章は、自身のアルコール中毒との闘いと、それが対人関係にもたらした壊滅的な結末を描き出す。

批評家、出版社、書店のいずれもが、現在の厳しい経済状況と、それが文学(と芸術全般)に及ぼす影響を嘆いている。しかし私は、エストニア文学がパラダイムシフトを経て、より一層強くなり、そして多様性を増したと感じている。私たちの文化的アイデンティティにとって、文学は以前ほど中心的な役割を果たすものではなくなっているかもしれない。しかし、結局のところ、文学が私たちの祖国の代わりとしての役割を果たす必要がなくなったのは、間違いなく良いことなのだ。

日本語訳:中村有紀子