アイルランド文学の最新のトレンド

ケヴィン・パワーさんの本棚

ケヴィン・パワーさんの本棚

ケヴィン・パワー

小説家兼評論家。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンにて2002年に学士号、2003年に修士号、2013年にアメリカ文学で博士号を取得。2008年に出版された『Bad Day in Blackrock』で小説家デビューを果たす。本作は2012年、レニー・エイブラハムソン監督により『What Richard Did』として映画化された。2021年、2作目の小説『White City』が、Eason Irish Novel of the Year賞、Dalkey Book Festival Novel of the Year賞およびKerry Group Irish Novel of the Year賞それぞれの最終候補となった。2022年、評論集『The Written World: Essays and Reviews』を発表。現在はダブリンのトリニティ・オスカー・ワイルド・センターで准教授を務めている。

アイルランド文学の最新のトレンドについて書くことを求められた時、私の頭に真っ先に浮かんだのは、デヴィッド・フォスター・ウォレスが水について書いた物語だった。2匹の若い魚が泳いでいるところに、年老いた魚が通りかかった。「おはよう、坊やたち」と、その魚は言った。「水はどうだね?」。2匹の若魚はそのまま泳ぎ続け、1匹がもう1匹に言った。「水ってなんだ?」。つまりこういうことだ。自分が暮らしている環境を客観的に見ることは難しいのだ。それでも、ざっと概観することはなんとかできるかもしれない。

おそらく、まずはモダニズムとその遺産から話を始めるのがベストだろう。オスカー・ワイルド、ジェイムズ・ジョイス、W.B.イエイツ、サミュエル・ベケットらが作り上げた文学の伝統の中で執筆することは、現代アイルランドの作家にとってはなんとも複雑な宿命だ。これらの錚々たる名前は、列挙した順にまさにモダニズムそのものを体現している(1890年代の耽美主義から1950年代の不条理文学まで)。

21世紀のアイルランド文学に見られる力強い潮流は、勇敢にもモダニズムのバトンを引き継ぎ、モダニズムを(言語、文学、意識の点で)新たに創造することに取り組んでいる。21世紀アイルランド文学を特徴づける小説作品と言えるマイク・マコーマックの「 Solar Bones」(2016年)は、たった1つの文で構成されている。それを語るのはルイスバーグ(メイヨー州)出身の今は亡き土木技術者、マーカス・コンウェイである。コンウェイの愛妻マイリーは、2007年にゴールウェイとその近郊でクリプトスポリジウム症の感染爆発が起きた時の犠牲者だった。これは建設された世界、私たちの日々の生活がその中で行われているインフラについての物語であり、意識そのものについての物語である。モダニズムをジェイムズ・ジョイスの小説「ユリシーズ」の最終回答「yes」で終わらせるのではなく、生きたプロジェクトとして支える物語だ。

アイミア・マクブライドの「 A Girl is a Half-Formed Thing」(2013年)と「The Lesser Bohemians」(2016年)も、まごうことなきモダニズム作品である。マクブライドはインタビューの中で、自らの作家人生における決定的な瞬間のひとつが、「ユリシーズ」との出会いであったと述べている。マクブライドの代表作であるこの2つの小説作品は、どちらも、トラウマの表現手段としての言語、また自己形成の難しさの表現手段としての言語に、暴力的なまでの揺さぶりをかけている。マコーマックもマクブライドも、文学界では何年もの間、冷遇されてきた作家であることも興味深い。マコーマックは初期作品こそ賞賛されたものの、「 Solar Bones」が広い読者層の意識にのぼり注目されたのはずっと後になってのことだった。マクブライドは「 A Girl is a Half-Formed Thing」の出版社を見つけるまでに9年を要している(最終的には、ノリッジの冒険心あふれる小出版社Galley Beggarから出版されることになった)。

対照的に、「 Solar Bones」は最初にアイルランドの小出版社 Tramp Pressから発表された。 Tramp Pressは、常にメインストリームから外れた重要作品を取り上げ、出版してきた会社である。創業者であるリサ・コーエンとサラ・デイヴィス=ゴフは、同社を立ち上げた時にはすでにアイルランドの小規模出版と文学雑誌のシーンで経験を積んだベテランであった。ふたりの仕事とTramp社の収めた成功を辿ると、必然的に、最新のアイルランド文学シーンのカギである文芸誌の世界が見えてくる。

デクラン・ミードが文芸誌「The Stinging Fly」の出版を始めたのは1997年のことだったが、当時、アイルランドでは文芸シーンを紹介する雑誌はマイナーな存在だった。この「The Stinging Fly」誌は、かなり長い間、初の短編を発表しようとする若手作家にとって、実質上唯一の舞台であり続けた。ミードの編集者・発行人としての偉大な才能によって「Fly」誌は、初刊行から25年でアイルランドの傑出した(時には世界クラスの)才能を輩出する媒体として、またインキュベーターとしての地位を確立する。ここから誕生した現代短編の名手が、ケヴィン・バリーとコリン・バレットだ。どちらも、Stinging Fly Press社から出版されたデビュー短編集で世界的に名を知られるようになった作家である。またクレア=ルイーズ・ベネット、ニコール・フラッタリーも同様だ。ロンドンやニューヨークを拠点とするカンの鋭いエージェントや発行人が「The Stinging Fly」誌に注目するのも当然のことである。

Fly」誌に続き、国境の北でも南でも数えきれないほどの数のアイルランド文芸誌が誕生した。ほんの一部を挙げるだけでも「The Tangerine」、「Banshee」、「The Moth」、「 The Pig’s Back」、「Tolka」などだ。豊かでエキサイティング、そして極めて変化に富んだ文芸シーンは、ほとんどの場合アイルランド・モダニズムの遺産を守りながら、新たな息吹を加えていく。名高いブレンダン・バーリントンによって2000年に刊行された由緒ある「Dublin Review」誌も、私的なエッセイがアイルランド文学界で復活を遂げることに一役かった。サリー・ルーニーの作品を初めて発表したのも「Dublin Review」誌である。そしてここで、私たちはモダニズムの領域を離れ、メインストリームという賑やかな商業舞台に足を踏み入れる。

ルーニーの収めた大成功は、何もないところから生まれたわけではない。アイルランドのメインストリーム小説には、2012年頃から商業的なブームが到来していた。つまり、ルーニーの才能が育つ豊かな土壌はすでに存在していたのである。ルーニーの作品の重要性とおもしろさは、アイリッシュなるものとの微妙な関係性にある。批判的な意味で言っているのではない。アイリッシュなるものとの微妙な関係性ほど、アイリッシュなものはないからだ。ルーニーは、数世代にわたるアイルランドの作家を象徴する存在だと言えよう。すなわち、アイリッシュ・モダニズムの遺産と向き合うために、外国でさまざまなインスピレーションを得た作家たちだ。ルーニーとその同僚作家の場合、そのインスピレーションの源は明らかにアン・ビーティーやメアリー・ゲイツキルといったアメリカのミニマリスト小説の旗手だった。一世代前を代表する作家、ジョン・バンヴィルにとって、ウラジーミル・ナボコフ、トーマス・マンが最も重要な存在だったように。英語圏の小国、アイルランドでは、もともと、外部からの影響が非常に柔軟に受け入れられてきた。文学においても、他の分野においても同様である。外からの影響と歴史が複雑に絡み合う中で、繰り返し新たに、そして魅力的に造形されてきたのがアイルランド文学なのだ。

日本語訳:中村有紀子