谷口政弘
合唱指揮者、アンサンブル歌手、アートマネジャー、通訳翻訳など。保育園在籍時には大相撲にハマり、力士の四股名を読めるようになった。小学校に上がると漢字が楽しくなり、最終的には漢詩や古典中国哲学に興味を持つ。中学生の時に国際政治に興味を持ち、高校では授業の一環で、黒海地域の国際政治について論考を書いた。言語にも多大な関心があり、知らない言語を聴くと、「学びたい」という欲求が抑えられない。 伊勢市出身。静岡県立大学国際関係学部卒業、東京藝術大学大学院音楽研究科音楽文化学専攻芸術環境創造領域修了。2017年よりマルタ在住。
2010年9月。ドバイ経由の飛行機で、無辺際に広がる瑠璃色の海に浮かぶ、灼熱の蜂蜜色に満ちたこの島に初めて足を踏み入れた。タラップで感じる、独特の湿気がこもったような生ぬるい空気。今でもあの空気を私の身体は覚えている。ただそれもすっかり馴染みのあるものとなってしまった。
なぜマルタだったのだろう。これは事あるごとにあらゆるところで尋ねられるのだが、「わからない」。私だって知りたいくらいだ。強いていうならば、「地中海の方が性分に合うだろう、島の方が面白い」と深く考えずにマルタを選んだとしか思えない。このときは英語の語学学校に通うというていで、わずか2週間の滞在だった。能動的に生きているという錯覚を起こすような、それまでの日本での慣れた環境に比べてある種の不便さのある生活やあちこちに点在する古代石造遺跡の浪漫に惹かれたのかもしれない。とまれ、そのときに「なにかを感じた」という表現が正しいのだろう。数年後、もう少し長く滞在してみたいという思いから、大学を1年休学して滞在することにした。この国のことをもう少し知りたいと思い、ヴァレッタの本屋でマルタの文学作品を探した。そこで手に取ったのは、現代マルタ文学の巨星オリヴァー・フリッジーリ(1947年生-2020年没)著作の英訳された短編集のペーパーバック。時間もそれなりにあったので、読み耽った。また言語好きの性分と野次馬精神が高じて、このときに大学語学学校のマルタ語のコースも受講し、基礎を少し学んだ。EUの公用語のうち唯一のセム語系言語であるマルタ語はどこかアラビア語とイタリア語が混ざったようである。現存するマルタ語で書かれた最古の詩は、15世紀後半のピエトル・カシャーロによる「カンティレーナ (Kantilena)」である。マルタ語自体、もっぱら話し言葉として使用され、長らく社会的地位は低いものだった。
このマルタ語を用いた独自の音楽にアーナがある。アーナには複数のジャンルがあるが、もっとも人気があるのはギターの伴奏とともに、複数人(4人あるいは6人)の歌い手が交互に即興で4行詩を歌っていく形式のものだ。いかにうまく韻を踏み、面白いことを言えるかということに重点が置かれ、音楽というよりは詩の即興制作の要素が大きい。資料の乏しいマルタのアラブ時代であるが、このような口語詩の伝統にアラブの痕跡が見られると良いだろう。例えば、即興で詩を歌い、競い合うという点においては、レバノンやパレスチナを中心とす地域に見られるザジャルに似ている。言語や口語詩にはアラブの要素が見られる一方で、一般的には、聖ヨハネ騎士団が残したバロックあるいはラテン文化の影響が根強くある。さらに、旧宗主国のイギリスとの繋がりも強く、これらはマルタの独自性たる所以だが、同時にアイデンティティに関する複雑さを表すものである。
2016年にはアーナと日本の伝統音楽の共同プロジェクト「アーナソリ」の立ち上げに関わった。それぞれの音楽の要素を取り入れた楽曲を制作し、日本とマルタで上演した。2021年にはマルタ外務省広報文化外交基金の支援のもと、アーナソリに関するドキュメンタリーを制作した。また同基金の助成金により出版された『穏やかな魂のチカラー第二次世界大戦下の日本におけるマルタ人修道女の記憶』に訳者のひとりとして関わった。これら以外にも、マルタのアートシーンや市井の人々の日常生活をそれなりに見聞するなかで、ぼんやりとこの国の一般的な美的価値観らしきものは見えてきた。例えば、美術館やギャラリーでの展示では、空白があればなんでもかんでも埋めたがる。また、ひとつのコンセプトに対して、次々とあれやこれやとさまざまな要素が追加されていき、プロジェクト自体が混沌とすることも少なくない。まさにマキシマリズムの極みとも形容できよう。
さて、経済も好調で開発が進み、外国人人口が急激に増加し、変化の激浪のさなかにあるマルタ社会だが、こうしたときこそ、マルタ語ならびにマルタ文学への訴求は強くなるのではないだろうか。この社会の行く末を見守りつつ、私もまた面白いと思えることに取り組んでいきたい。グラッツィ、ウ、サッハ!(ありがとう、そしてお元気で)