木村英明
ブラチスラヴァのコメンスキー大学でスロヴァキア文学を学ぶ。スロヴァキア文学の翻訳に取り組むほか、東京外国語大学や早稲田大学で中欧文化論、スロヴァキア語、ロシア語の授業を持つ。
1989年末に起きた体制転換に続く90年代のいわゆる「ポスト社会主義期」においては、旧体制下の非公式作家の作品が社会の耳目を集めはしたものの、文学シーンの中央に居座っていたのは、依然70年代から80年代にかけて公式に作品を発表してきた作家たちだった。そうしたなか、ロックミュージシャンでもあったP.ピシチャネク(Pišťanek 1960-2015)による長編3部作『リヴァーズ・オブ・バビロン』(1991-1999)は、それまでのスロヴァキア文学のテーマや文体を一新する衝撃的作品として迎えられた。主人公はかつて描かれたことのない粗野な裏社会の住人であり、彼の野心的冒険譚が暴力やセックスを前面化しつつ、俗語や外国語、先行するスロヴァキア文学のパロディ等が交雑する文体で綴られていた。現代スロヴァキア文学の表現の地平を押し広げ、21世紀の新たな書き手たちに大きな影響を与えたという意味で、今でもアクチュアルな作品と言える。
その後、2004年のEU加盟、インターネットの浸透やグローバル化に伴うスロヴァキア社会の推移は、ピシチャネクに続く若手作家の世界観・芸術観にも、大きな変容を促すこととなった。19世紀以来、文学の主流といえば、スロヴァキアネイションの故郷と考えられてきた山間地やその民俗世界を背景にしていたが、新世紀の作家の眼差しに映じるようになったのは、より広い欧州の歴史的空間の中にあるスロヴァキアであり、あるいはもはや国境に縛られない地球全体であった。
P.ランコウ(Rankov 1964-)は、『それは9月1日に(あるいはいつの日かに)起こった』(2008)でEU文学賞を受賞した。一人のスロヴァキア系女性に恋をしたチェコ系、ハンガリー系、ユダヤ系の3人の高校同級生が、1938年ミュンヘン協定によるチェコスロヴァキア解体、第2次世界大戦と1948年共産党政権樹立、1968年プラハの春とワルシャワ条約機構軍の侵攻などの歴史的変動を背景に、平凡な市民として日常を生きていく姿が平易な文体で語られている。そこでは中欧、あるいは欧州全体という視角から、スロヴァキアの歴史と生活が捉えられていた。ランコウは、この作品に続く『母たち』(2014)や『舌の伝説』(2018)でも、ソ連の強制収容所や1970年代の正常化体制といった歴史的事項と各時代の生活者の感覚を、緻密な構成で往還する小説世界を作り上げている。
歴史改変ファンタジーを手がけるM.フヴォレツキー(Hvorecký 1976-)は、『ウィルソノウ』(2015)において、現首都ブラチスラヴァのかつての中欧都市としての姿を幻視する(ウィルソノウはドナウ川河畔の架空都市であるが、1918年チェコスロヴァキア独立直後、実際にブラチスラヴァをアメリカ大統領の名にちなんでウィルソン市と名付ける案が一部から出されたことがある)。倒錯的な殺人事件をめぐり、多民族からなる住民が入り乱れてカオス的な様相を呈する物語を通して、現首都の過去に刻まれた中欧性が仄暗い輝きを放って浮かび上がってくる。ちなみに、同作家の近作短編集『黒いライオン』(2020)の表題作は、ソ連とワルシャワ条約機構軍ではなく、アメリカとNATOの傘下に組み込まれたチェコスロヴァキアを描いている。
中欧の枠組みを超え、世界の動向と一般市民の日常感覚をブラックユーモアを交えて対比する作家に、M.コプチャイ(Kopcsay 1968-)がいる。『解放』(2015)ではロシアによるクリミア併合とシリア戦争を題材に取り上げ、『壁』(2018)では社会主義時代の全体主義が甦り、現代世界に結節する様相を幻想的に描き出している。
グローバル化した21世紀社会において、拡散し多様化する価値観を見つめ、変貌を余儀なくされていく家族や愛の形を模索する作家たちの活躍も特筆される。J.ベニョヴァー(Beňová 1974-)のEU文学賞受賞作『カフェ・ハイエナ』(2008)は、無機質な大団地群と、押し寄せる市場原理主義の象徴である巨大スーパーマーケットの中で育まれる現代の愛を、またM.コムパニーコヴァー(Kompaníková 1979-)の『5番目の船』(2011)は、育児放棄された12歳の少女が8歳の少年と共に、捨てられた生後6ヶ月の双子の世話をする擬似家族の姿を活写している。12歳の少女と教師のモラルを超えた関係を斬新な文体で記した『この部屋は食べられない』(2021)のN.ホフホルツォヴァー(Hochholczerová 1999-)、人間と自然の相剋と交感を詩的に表現した『鹿の家』(2022)のD.モラウチーコヴァー(Moravčíková 1992-)など、若手作家の今後の創作活動にも期待したい。